小浜線無煙化を5ヶ月後に控え、敦賀一区のラウンドハウスに収まるC58達。
大柄な敦賀式集煙装置を装備したD51も去り、もうすぐ敦賀の庫から完全に蒸機の火が消えてしまうとは想像できない程の賑わいだが、煤けた車体に浮いた錆が終焉間近を感じさせた。
【 小浜線 敦賀第一機関区 / Minolta SR-T101 55mm F1.7 Kodacolor-X / Apr.'71 】
山笑う峠路
あの時の感動から1ヶ月余り。同じ感動を同じ下り貨物で味わうべく、同じ場所に三脚を据えて準備万端で待ち構えてみたものの、何食わぬ顔で現れたC58278[敦一]に拍子抜けしている中学生を見て、どうやら山も笑っていたようだ。
【 小浜線 西敦賀-粟野 / Minolta SR-T101 135mm F3.5 Kodacolor-X / Apr.'71 】
11th Anniversary 40年の轍(2)
初代シビックでは、ちょうど山口線に復活したばかりのC57を撮影するために中国道を飛ばして遠征してみたものの、勇んで出掛けた割には期待していた程の感動はなく、一度きりのSL撮影行となってしまいました。
次に手に入れたのは、学生時代同じゼミの一人が乗っていたのが、学生の分際で…と疎ましくもあり、本音は羨ましかった初代アコード。地味な色が年寄りくさいと勤め先の同僚には不評だったベージュのアコード1600サルーンEX-L。ホンダマチックというセミA/T車でした。
そう言えば、約50年前のキネ旬の頃から作風が気に入っている川本紘義氏が「国鉄時代」誌に寄稿された記事に、初代アコードに乗り続けておられるという逸話が載っていて、全幅1620㎜というコンパクトさ故に北陸本線旧線杉津越え廃線跡のトンネル内でのすれ違いもできたというエピソードは興味深く、その内BS朝日の「昭和のクルマといつまでも」にご本人が登場されるのではないかと密かに期待しています。
このアコードでは、155SR13という今となっては軽自動車並みに細い標準装着タイヤをキィキィー鳴かせながら、小浜線沿いの野坂山麓の関峠を走った事が思い出されます。写真はその時のSLわかさ号。稲架木や藁葺き屋根の農家が点在する純日本的な風景の中、C56160のドラフトと低空飛行するヘリコプターに驚いた鷺が2-3羽飛び立ちました。
二休のカマの顔が、例外なく悲しげに映るのは、決して偶然ではないだろう。
そんな表情にカメラを向ける少年。そして、そのシーンを撮る自分自身も未だ少年・・・
子供心にも撮らずにはいられなかったのだ。
次に手に入れたのは、学生時代同じゼミの一人が乗っていたのが、学生の分際で…と疎ましくもあり、本音は羨ましかった初代アコード。地味な色が年寄りくさいと勤め先の同僚には不評だったベージュのアコード1600サルーンEX-L。ホンダマチックというセミA/T車でした。
そう言えば、約50年前のキネ旬の頃から作風が気に入っている川本紘義氏が「国鉄時代」誌に寄稿された記事に、初代アコードに乗り続けておられるという逸話が載っていて、全幅1620㎜というコンパクトさ故に北陸本線旧線杉津越え廃線跡のトンネル内でのすれ違いもできたというエピソードは興味深く、その内BS朝日の「昭和のクルマといつまでも」にご本人が登場されるのではないかと密かに期待しています。
このアコードでは、155SR13という今となっては軽自動車並みに細い標準装着タイヤをキィキィー鳴かせながら、小浜線沿いの野坂山麓の関峠を走った事が思い出されます。写真はその時のSLわかさ号。稲架木や藁葺き屋根の農家が点在する純日本的な風景の中、C56160のドラフトと低空飛行するヘリコプターに驚いた鷺が2-3羽飛び立ちました。
【 小浜線 粟野-東美浜 Aug.'81(上)/ 住友セメント多賀専用線 多賀貯鉱場 Nov.'80(下)
/ Minolta XD 50-135mm F3.5 Fujicolor F-II(上下共)】
/ Minolta XD 50-135mm F3.5 Fujicolor F-II(上下共)】
プレーリーを観る(8)
二休のカマの顔が、例外なく悲しげに映るのは、決して偶然ではないだろう。
そんな表情にカメラを向ける少年。そして、そのシーンを撮る自分自身も未だ少年・・・
子供心にも撮らずにはいられなかったのだ。
遠いあの日 「50年前の“今日”へ」 C58195
50年前の今日、9月24日秋分の日。翌土曜日のさよなら運転に備えて、主役の敦賀一区のヌシ171号機は既に美しく磨き上げられ、穏やかな秋空の下、訪れた大勢のファンのために扇形庫から少し頭を出して煙を燻らせ、時には沿線住民や機関区の職員と一緒に記念写真に収まっていた。
その一方で、大勢の整備掛に取り囲まれて慌ただしく整備が行われるもう一両のC58の姿があった。翌日の主役はもちろん件の171号機だが、この日はむしろこのカマの方だったのかもしれない。昇圧した状態で通常の仕業点検が行われる中、その171号機と最後の仕業でコンビを組むためだろう、ランボードには新たに白線が入れられ、煙室扉も塗装し直されようとしていた。そう言えば、8月に美浜で見かけた時は確かに錆が浮いていたっけ・・・
そのカマはC58195。翌日の本番では171号機の次位となり脇役だが、この日の仕業票にはそのさよなら列車と同じ列車番号938・937が記されていた。列車番号の前の「F」とは重連仕業の前機を表すのだろうか、オリジナルの地色の黒を剝がして、ナンバープレートに朱が入れらたのは、この日下り938レ福知山行の先頭に立つ195号機への「敦一」の職員の皆さんのささやかな愛情表現のように思われた。
やがて、整備を終えて赤ナンバーとなった195号機は、ゆっくりとターンテーブルに乗り、対照的に煤けてスッピンの212号機を次位に従えて出区線に収まった。未だ土曜「半ドン」の時代、翌土曜日は授業と部活があって、さよなら列車を見届けることは叶わないから、この二両が牽く1日前の938レこそが自分にとっての小浜線最後のC58走行シーンとなる。
機関区の反対側の端っこにある小浜線ホームの先へ急ぐと、程なくしてだだっ広い敦賀駅の構内に二声の汽笛が響いた。さよなら列車と同じ11時50分発。未だ暑さの残る秋晴れの下、「最後」には相応しくないのが今も心残りの何の変哲もない場所で、薄い煙を吐いて遠ざかるドラフトを万感の想いで見送ったのだった。
その一方で、大勢の整備掛に取り囲まれて慌ただしく整備が行われるもう一両のC58の姿があった。翌日の主役はもちろん件の171号機だが、この日はむしろこのカマの方だったのかもしれない。昇圧した状態で通常の仕業点検が行われる中、その171号機と最後の仕業でコンビを組むためだろう、ランボードには新たに白線が入れられ、煙室扉も塗装し直されようとしていた。そう言えば、8月に美浜で見かけた時は確かに錆が浮いていたっけ・・・
そのカマはC58195。翌日の本番では171号機の次位となり脇役だが、この日の仕業票にはそのさよなら列車と同じ列車番号938・937が記されていた。列車番号の前の「F」とは重連仕業の前機を表すのだろうか、オリジナルの地色の黒を剝がして、ナンバープレートに朱が入れらたのは、この日下り938レ福知山行の先頭に立つ195号機への「敦一」の職員の皆さんのささやかな愛情表現のように思われた。
やがて、整備を終えて赤ナンバーとなった195号機は、ゆっくりとターンテーブルに乗り、対照的に煤けてスッピンの212号機を次位に従えて出区線に収まった。未だ土曜「半ドン」の時代、翌土曜日は授業と部活があって、さよなら列車を見届けることは叶わないから、この二両が牽く1日前の938レこそが自分にとっての小浜線最後のC58走行シーンとなる。
機関区の反対側の端っこにある小浜線ホームの先へ急ぐと、程なくしてだだっ広い敦賀駅の構内に二声の汽笛が響いた。さよなら列車と同じ11時50分発。未だ暑さの残る秋晴れの下、「最後」には相応しくないのが今も心残りの何の変哲もない場所で、薄い煙を吐いて遠ざかるドラフトを万感の想いで見送ったのだった。